台風が近づいた10月13日、伊勢崎放射能について学ぶ会主催の「反原発・フクシマ被災地視察」に参加しました。
いわき市の元共産党県議で、原発事故の完全な賠償を求める会の伊東達也さんの案内で、いわき市から北に進みました。いわき市は前橋市と同じ人口ですが、原発から避難してきた人が2万4千人に収束や除染に携わる作業員6千人と合わせて3万人が、住民票はないが事故以後移り住んでいます。同時にいわき市から他へ避難して戻らない方が多数おり、町は様々な面で大混乱をしているということです。
市北部は空き地に原発作業員の宿舎が立ち、モテルも作業員宿舎になっていました。町長が帰還をよびかけ庁舎を再開した広野町では、まだ半数しか戻っていません。
広野町と富岡町の境には7、8号機建設の見返りにつくられたと言われる、130億円かけたサッカーコートが十一面あるJヴレッジの広大な施設があります。現在は原発終息のための労働者の終結センターとなって、車やバスがたくさん並んでいます。毎朝ここに通う作業員の車で道路は大渋滞をおこしているということです。
入口の道路に建てられた作業員向けの働く人の権利をよびかけた看板は、何かあったら相談しようと、写真に収められて、作業員のよりどころになっているということです。
富岡町は帰還宣言を出そうとしているが、反対者が多く延期されているそうです。除染により家の周りや田んぼも外見上は元に戻ったように見えますが、人の姿はありません。20の行政区ごとの仮置き場に、除染で出た土がシートをかけて山積みになっています。袋が劣化すると引き上げると破れてしまうということです。
やがて除染の済んでいない地域に入ると、田んぼはセイタカアワダチソウの群生地になっています。 立ち入り制限地域では、泥棒が横行、一時帰宅した時には貴重品は何もなくなっていた家が多いということです。
海岸沿いの富岡駅と駅前の商店街は、津波のあった時のままで一階はこわれ、車もひっくり返ったまま手がついておらず、美容院の時計は津波のあった時刻で止まっていました。除染関係者の車がたまに通るだけで、ゴーストタウンそのものです。
この集落は声を掛け合い避難して津波で亡くなった人は少なかったが、仮設での孤独死など関連死の方がずっと多いということです。
戻れなかった家の片づけは、津波でやられたのだから自前でやれと国と東電は当初言ってきたが交渉の中で変えさせたそうです。
更に進むと道路は、だんだん線量計が上がり8マイクロシーベルトまで上がってきました。無人の町のあちこちに、原発立地の見返りにつくられた立派な公共施設が建っていたことも印象的でした。
楢葉町の宝鍾寺で早川住職からお話を聞きました。早川さんは原発建設反対運動の先頭に立ってきた方です。現在は日中しか寺には立ち入れず、寺の仏像と一緒にいわき市のアパートに避難しており、福島原発避難者訴訟原告団の団長を務めています。
早川さんはここに住んでいた方の生活と将来の夢が、原発事故によってそっくり無くなってしまった現実について話してくれました。
原発事故被災地の現状を多くの皆さんに知らせてもらいたい。東京都の半分ほどが人の住めない場所になり、10万人を超える人が避難生活をしている事を忘れず、日本中に被災者支援と再稼働させない世論を広げてもらいたいと話していました。
いわき市の元共産党県議で、原発事故の完全な賠償を求める会の伊東達也さんの案内で、いわき市から北に進みました。いわき市は前橋市と同じ人口ですが、原発から避難してきた人が2万4千人に収束や除染に携わる作業員6千人と合わせて3万人が、住民票はないが事故以後移り住んでいます。同時にいわき市から他へ避難して戻らない方が多数おり、町は様々な面で大混乱をしているということです。
市北部は空き地に原発作業員の宿舎が立ち、モテルも作業員宿舎になっていました。町長が帰還をよびかけ庁舎を再開した広野町では、まだ半数しか戻っていません。
広野町と富岡町の境には7、8号機建設の見返りにつくられたと言われる、130億円かけたサッカーコートが十一面あるJヴレッジの広大な施設があります。現在は原発終息のための労働者の終結センターとなって、車やバスがたくさん並んでいます。毎朝ここに通う作業員の車で道路は大渋滞をおこしているということです。
入口の道路に建てられた作業員向けの働く人の権利をよびかけた看板は、何かあったら相談しようと、写真に収められて、作業員のよりどころになっているということです。
富岡町は帰還宣言を出そうとしているが、反対者が多く延期されているそうです。除染により家の周りや田んぼも外見上は元に戻ったように見えますが、人の姿はありません。20の行政区ごとの仮置き場に、除染で出た土がシートをかけて山積みになっています。袋が劣化すると引き上げると破れてしまうということです。
やがて除染の済んでいない地域に入ると、田んぼはセイタカアワダチソウの群生地になっています。 立ち入り制限地域では、泥棒が横行、一時帰宅した時には貴重品は何もなくなっていた家が多いということです。
海岸沿いの富岡駅と駅前の商店街は、津波のあった時のままで一階はこわれ、車もひっくり返ったまま手がついておらず、美容院の時計は津波のあった時刻で止まっていました。除染関係者の車がたまに通るだけで、ゴーストタウンそのものです。
この集落は声を掛け合い避難して津波で亡くなった人は少なかったが、仮設での孤独死など関連死の方がずっと多いということです。
戻れなかった家の片づけは、津波でやられたのだから自前でやれと国と東電は当初言ってきたが交渉の中で変えさせたそうです。
更に進むと道路は、だんだん線量計が上がり8マイクロシーベルトまで上がってきました。無人の町のあちこちに、原発立地の見返りにつくられた立派な公共施設が建っていたことも印象的でした。
楢葉町の宝鍾寺で早川住職からお話を聞きました。早川さんは原発建設反対運動の先頭に立ってきた方です。現在は日中しか寺には立ち入れず、寺の仏像と一緒にいわき市のアパートに避難しており、福島原発避難者訴訟原告団の団長を務めています。
早川さんはここに住んでいた方の生活と将来の夢が、原発事故によってそっくり無くなってしまった現実について話してくれました。
原発事故被災地の現状を多くの皆さんに知らせてもらいたい。東京都の半分ほどが人の住めない場所になり、10万人を超える人が避難生活をしている事を忘れず、日本中に被災者支援と再稼働させない世論を広げてもらいたいと話していました。
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